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創業期以来の赤字」トヨタが危機管理に一度だけ失敗した日

2021年06月04日

トヨタが危機管理で「唯一失敗した」リーマンショックの教訓

2020年、新型コロナの感染拡大で世界の自動車産業も大きな打撃を受けた。しかし、トヨタ自動車の2021年3月期の連結決算は、売上高27兆円、純利益は2超2452億円と急回復させた。なぜトヨタは何が起こってもびくともしないのか。この危機で命運を分けた最大の理由はトヨタの優れた危機対応力にあった。

本連載は野地秩嘉著『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)より一部を抜粋し、再編集したものです。


震災、リーマンショック…創業以来の赤字を計上

「不況の時、減産に対しても利益を確保できる」ことがトヨタ生産方式の特徴とされていたが、リーマン・ショックではそれがまったく通用しなかったという。(※画像はイメージです)

トヨタの危機管理が本格的に始まったのは1995年の阪神・淡路大震災だった。その次に訪れた危機は災害ではなく、景気後退による需要の急減で、2008年のリーマン・ショックである。

同年9月のことだった。アメリカの投資銀行、リーマン・ブラザーズが破綻した。それをきっかけに世界的な株価下落、金融不安が起き、同時不況となったのである。

自動車業界も影響を受け、トヨタは翌2009年の決算で4610億円の赤字となった。これは創業期以来のことだった。リーマン・ショックでは先進国の新車需要は止まり、トヨタだけでなく自動車各社は赤字になっている。GM、クライスラー、サーブは破綻し、富裕層の固定客を持つ、あのポルシェまでもが苦境に陥った。

「他社に比べればトヨタはまだいい方じゃないか」

そんな声もなかったわけではない。

しかし、トヨタの現場には悲愴感が漂っていた。

「不況の時、減産に対しても利益を確保できる」ことがトヨタ生産方式の特徴とされていたのに、リーマン・ショックではそれがまったく通用しなかったからだ。
業績好調がゆえに…異常の顕在していた「危機」以前

同社の原則、トヨタ生産方式が形骸化していたことが明らかになったのがリーマン・ショックだった。

危機に至るまでの経緯は次のようなもので、リーマン・ショック直前までトヨタの業績は右肩上がりだったのである。

「2007年末時点でのトヨタの海外生産拠点(エンジンなどユニット工場を含む)は、27カ国・地域で53事業体を数え、それまでの10年間で1・5倍に増加した。また、日野自動車とダイハツ工業を加えた連結ベースの世界生産台数は、2000年の594万台から、2007年には950万台へと拡大していった。7年間で356万台の増加であり、年平均で約50万台の成長が続いた。トヨタの生産拡大は海外を中心に、年産能力20万台規模の工場を毎年2~3カ所新設するハイペースで進んだことになる」(『トヨタ自動車75年史』)

毎年、50万台の増産とは2年に1度、スバル(年産約100万台)と同じ規模の自動車会社ができるのと同じだ。人も設備も機械もどんどん増やしていって、コントロールが効かない状態になっていたのである。

そして、新設した工場ではトヨタ生産方式の指導が行き渡っていなかった。新設工場では部品在庫も完成車在庫も膨らんでいたのである。

当時の経営目標は「生産台数で世界1になること」。

経営陣が明言したわけではない。しかし、策定されていた「グローバルマスタープラン」は拡大偏重主義だった(赤字の年に社長になった豊田章男はすぐにそのプランを破棄している)。

現場では「1000万台を達成する」ために車を増産し、ヤードには車があふれ、完成車を積み込む自動車専用船の手当てに悩む状態だった。

そんな状態だったのに、誰も「止めろ」と言わなかった。

トヨタ生産方式の原則のひとつが異常の顕在化である。ヤードがあふれているのは異常だ。生産現場は自主的にラインを止めなくてはならなかったはずだ。ところが止められなかった。

リーマン・ショック時のトヨタはトヨタ生産方式を忘れていた。異常を見る目を持っていなかったし、顕在化させる決断もできなかった。

全社員が世界1の生産台数という目標に向かって走っていたため、現実よりも目標数字を見ていたのである。

まさしく危機だった。

では、彼らはどうやって危機に対処し、それを乗り越えたのか。



リーマンショックに学んだ定量保全から兆候保全

「リーマン・ショックの前まで、現場はイケイケどんどんだった。危機感がなかった。危機感がなかったから、危機管理なんて考えていなかった。だから、僕はリーマン・ショックの時の教訓はちゃんと残しておかなきゃならないと思っている。耳に痛い話を語るのが僕の仕事だから。

リーマン・ショックの前の危機といえば阪神大震災でしょう。震災のあった1995年からリーマン・ショックまでは10年以上も時間が空いていたから、危機を知らない社員が増えていた。それもまた問題だった」

当時、河合満は61歳。理事兼本社工場の工場長だった。

とにかく売り上げは伸びる一方だったから、多少、利益率が悪くなってもそれを指摘する人間はいなかった。また、河合が会議で指摘しても、その声はかき消された。

河合は言う。

「急成長している時に、危機の種は蒔かれていたんだ。そして、赤字になって、みんなパニックになった。対処といえばとにかく出金(でがね)を抑えること、それと止められるラインを止めることだった。

業績は急回復した。だが、黒字になったからといって、危機管理に成功したわけではない」

なぜかといえば、それは急回復させるために、設備と機械の計画保全を先送りしたからだった。計画保全とは壊れていない機械、寿命が来たわけではない設備を先々のことを考えて定期的にオーバーホールすることだ。

本来はそこまでやらなくてもいいことだけれど、トヨタの現場では高い可動率を維持するために外注保全費にも定期的に予算を使っていた。ところが、リーマン・ショックの時は繰り延べたのである。

「あの時は、計画保全を先延ばしにした。だがリーマン・ショックから3年経った時、設備、機械の修理が増えた。しかも、突発で症状が出たから、専門家に突貫で直してもらうことになる。そうなると、修理費も高くつく。設備、機械はちょっと摩耗した時に変えればいいんだ。その方がかえって安い。だが、いい勉強になった。以後、我々は設備、機械の修理を先延ばししたことはない。

ただし、その後、うちは定量保全から兆候保全に変わってきている。定量とは生産量に応じて、生産量が多い時期には1か月に1回、少ない時期には2か月に1回などと、期限を決めてやること。これが定量保全。だが、リーマン・ショックの後の大修理からは兆候管理にして、故障する兆候が見えたものから順次、直したり、交換したりすることにした。さまざまなところにセンサーをつけたんです。

『電圧がちょっと高めに出てきた、どこかが摩耗して負荷がかかっているんだな。じゃあ、早めに換えよう』。

時期を待たずに故障の兆候が出たら換える。すると大修理が少なくなる。ただ、兆候を知るためにセンサーをつけるポイントが問題だ。どこでもいいわけじゃない。匠の保全マンが、ここだという場所に取り付けないとセンサーの役割を果たさない。リーマン・ショックは危機管理で成功ではなかった。だが、いろいろ教えてもらった。

あの時の反省として、今回の新型コロナ危機では『修理の金はケチるな』と社長も番頭も言ってくれた。現場にしてみればありがたい話ですよ」

野地秩嘉
ノンフィクション作家




引用元の記事はこちら(https://news.yahoo.co.jp/articles/8663b9846ce41ebfa31bccb79355aeb5a78b3ce1)


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