2022年01月10日
頂き物に「お返し」したら叱られたまさかの理由
疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第39回をお届けします。
■心からの幸せを噛み締める正月
みなさま新年明けましておめでとうございます。どうぞ本年も「買わない生活」をどうぞよろしくお願いいたします。
さて早速ですが、私新年早々、さっそく「もらって」しまいました!
私が喜ぶのは食べ物、そして新年となれば……そう「おせち料理」! 近所のおばあちゃんが小さな重箱3段とタッパー2個にぎっしりのおせちを作ってくださいまして、実家に帰る前に「お父様と一緒に食べてくださいね」とわざわざ持ってきてくれたのです。
さらには別の近所のおばちゃんも、正月用の「のし餅」を米屋から取り寄せたからお裾分けするネとメールをくださいまして、帰宅すると、紙袋に入ったつきたてスベスベのお餅がわが郵便受けにイン!
このお2人のご厚意により、老父と私の2人は正月を無事に迎えることができたのでした。
「おいしいね」「ありがたいね」と言いながらおせちをつつき、ホカホカの雑煮をいただく2人だけの食卓。それは詫びしいどころか実に華やかな暖かいものと相成りましたとさ……って、いやいやこれってマジで「笠地蔵」の世界じゃないか! ウソのようなまさかの現実に、ありがたいやら笑えてくるやら。
ここまでくると、私の人生はどうしたって盤石であると思わざるをえません。そうだよこのような状態をこそ「人生の頂点」というのでは……?
と、金満会社員時代にはまったく得られなかった心からの幸せを噛み締める正月となったのでありました。
そう自分のお金で超高級料亭のおせちを買うのも、それはそれで素晴らしいことには違いない。でも羨ましいかと問われれば、今の私にはそのような気持ちは一切なし。
だって私の「もらったおせち」のほうがずっと贅沢だ。美味しさもさることながら、そこには「信頼できる友達」という大きすぎるオマケがついているのだから。いやオマケと言うより、こっちがメインで、おせちやお餅がオマケなのかもしれぬ。いずれにせよ、これはお金では決して買うことのできない究極の贅沢であることは間違いない。
■会社員時代には想像すらしなかった世界
そして皆様に是非ともお伝えしたいのは、私とて会社員時代、つまりはすべてをお金で手に入れるのが当たり前だった時代には、このような僥倖を得ることはまったくできなかったし、それどころかこんな世界があるなど想像すらしなかったということだ。
それが会社を辞め給料がもらえなくなったことを機に「買わない」世界を一つ一つ探求していった結果、6年の歳月をかけて、ついにこのような地点まで上り詰めることができたのである!
ってことはすなわち、誰だって心がけ次第でこのような「笠地蔵」の世界で暮らすことはちゃんとできるのであります。
というわけで、またも自慢話が長くなってしまったが、昨年から延々と語ってまいりました「もらう生活」のコツについての話を再開したいと思います。
前回、もらうコツとして、何よりもまず「自分をつねに不足させる」ことが必須であると書いた。
なぜって、不足していないものは、もらったところであんまり嬉しくないからだ。でも嬉しくない顔なんてしたら失礼に当たるので、嬉しくないけど嬉しいフリをしなきゃならない。それはそれで疲れる作業だが、実はそこまで頑張ったところで残念ながらムダなのである。相手にはしっかりバレている。人とは案外スルドイ生き物なのだ。
なのでその場は丸く収まったように見えても、敏感にあなたの本心を察知した相手は、以後決してあなたに何かをくれようとはしなくなるであろう。
ってことで、この「あげる」と「もらう」の関係はジ・エンドとなり、あなたはまた「カネ依存」の暮らしに逆戻り。一生をお金に振り回されて終えることになるのであります。
なのでもしそこから抜け出したければ、ここでちょっとした一踏ん張りをせねばならぬ。そう、自分を不足させること! すなわち何もかも抱え込まず、必要としている人に気前よく与えること。そのうち、ちゃんと何かが足りなくなってくる。その時こそがチャンスだ。
だって、足りないものを誰かにもらったらそりゃ嬉しい。助かります。なので心から「ありがとう」と言える。演技も何も必要なし。相手には確実に、あなたが心から喜び感謝していることがわかる。
となると、相手は必ずや「またあの人に何かあげたいな」と思うのだ。
■ヒトは感謝されることが大好き
ってことで、ここで初めて「もらう」生活への第一歩が無事にスタートするというわけ……って、そんな簡単にうまいこといくわけないだろって?
いやいや、これは実は不思議なことでも何でもないのだ。
何しろ人というのものは人に感謝されることが本質的に大好きで、しかもモノをムダにすることは本質的に大嫌いなのである。なので、何かを喜んでもらってくれて、それをちゃんと使ってくれる人というのは、実に「喜ばしい」「重宝な」存在なのである。
と言いますか、このモノあまりの時代、誰もが余分なものの処分に頭を悩ませているわけで、そんな中で突如現れた「何かを喜んでもらってくれる人」というのは、いわば「飛んで火に入る夏の虫」と言ってもいい。
そのように認定されたらタダでは済まないと覚悟したほうがいいかもしれない。噂が噂を呼び、あなたはある種の「カモ」として、つねにもらってもらってもらいまくることになってもまったく不思議はないのである。
ということで、「もらう名人」になる次のコツはコレだ!
コツその2 もらったものは大喜びで使う
そう、このコツをしっかり身につけたことこそが、私が今のような「人生の頂点」に立つに至った唯一最大の理由と言っていい。
と言っても最初は、そんなことはまったく意識していなかった。
それが数年前、銭湯仲間の近所のおばあちゃんがふとした会話から折に触れておかずを作ってくださるようになりまして、恐縮しつついただくうちにある「事件」が勃発。そのことが、私を大きく変えたのである。
事件の引き金になったのは、私の何気ない「気づかい」だった。
と言いますのは、おばあちゃんが次も、また次も……とエンドレスにおかずを作ってくださるので、さすがに恐縮して「いつももらってばかりで申し訳ないので……」と、果物など買ってお返しをすることにしたのである。これぞ気配りというもの。社会人としての常識を礼儀正しく発揮したつもりだった。
するとですね、驚いたことに、まさかの叱責をいただいたのであります。
「そんなことするならもう差し上げません!」
えー、どーゆうこと?
最初は意味がわからなかった。遠慮してるのかな? でもそんなに大したものじゃないし、こっちももらうばっかりじゃあさすがに気がひけるし……と悶々とする日々。でもやりとりを重ねるうちに、少しずつおばあちゃんの意図がわかってきた。
「好きでやってることで、お返しが欲しくてしてるわけじゃない」
「私は喜んで食べてくれるのが何より嬉しいの」
「逆に、もしいらないなら、いらないって遠慮せずはっきりおっしゃって。そのほうが助かるから」
■1円も使わない最大の「お返し」とは
――なるほど、そういうことか。
私は「お礼」ということを勘違いしていたのかもしれない。もらったら、それ相応のものをお返しすることで、お互い「貸し借りなし」、つまりはチャラにすることが「お礼」なのだと思っていた。
でも、そうじゃなかったんじゃないだろうか?
というか、それは単なる自己満足だったんじゃないだろうか?
おばあちゃんが求めていたのは、形ばかりの「お礼」なんかじゃなくて、形のない、心からの「お礼」だったんじゃなかろうか。それは、心底嬉しそうな笑顔かもしれない。間髪入れぬ「美味しかった!」という感想かもしれない。
いずれにせよ、どうしたらおばあちゃんへアリガトウの気持ちを真心込めて見せることができるのかを、安易にモノやお金に頼ることなく、自分の頭でちゃんと考えること。それはすなわち、たとえ数分間であれ心からおばあちゃんのことを考える時間を作ることである。それこそが、おばあちゃんの求めていた本当のお礼だったんじゃないだろうか?
だって考えてみれば、おばあちゃんが私におかずを作ってくれるのは、お金では換算できないプライスレスな行為なのだ。私が何を喜ぶかを考え、真心込めて何かをつくってくれた時間を、お金でチャラにすることなどできようか。なのにそれをやろうとした私の行為は、おばあちゃんを深く傷つけたに違いない。
そうだよ。プライスレスなものをいただいたら、お礼もプライスレスでなければならない。
そう思い至った私は、「いつもいつもいただくばっかりで……でもありがとうございます!」と、エヘヘと嬉しそうな顔でどんどんいただくことにした。
そしてもらったら即座にありがたく食べ、あれが美味しかった、これが最高だったと具体的に感想を伝えた。するとおばあちゃんはそれを覚えていて、私の好みに合わせてあれこれ作ってくれるのだった。さらに甘いものが苦手なことも伝えたら「そう言ってくれた方がありがたい」と喜んで、あまり甘くならないように味付けに気を使ってくださるのだった。
■真心込めて感謝の気持ちを伝える
なるほどそうなのだ。「もらう」ことも「もらい方」によっては最高のプレゼントになるんじゃないだろうか? 真心込めて、打てば響くようにアリガトウの気持ちを精一杯伝えること。
そのためのちょっとした工夫……例えば。何がどう美味しかったのかを具体的に伝えたり、一味違う味付けについてそのコツを聞いたり、つまりはちゃんと味わって美味しくいただいたということ、嬉しかったということを、真心込めて、打てば響くようにちゃんと伝えること。これこそ最高最大の「お礼」であり「プレゼント」なんじゃないだろうか。つまりは「もらう」ことそのものが、まさかの「あげる」に転化するのである。
なので、これができさえすれば、「あげる」と「もらう」のキャッチボールは永遠に続き、しかもやりとりが増えるほどにお互いのコミュニケーションが進んでいくので、もらえるものはどんどんバージョンアップして精度が上がっていくのである。
で、ついに到達したのが冒頭にご紹介した「おせち」である。
実は昨年も少し作ってくださって、その時に入っていた酢ダコが老父にえらく好評で、これは美味しいなあと喜んでパクパク食べていたので私も嬉しくなり、イの一番にそのことを報告したところおばあちゃんもえらく喜んで、今年は「いいタコを一生懸命選んで作りましたからね!」と胸を張っておせちを持参してくださった。どれどれとタッパーを開けると美しいタコが整然と並び、その上にたっぷりと柚子が載っかっていた。
ありがたくて涙が出た。
この気持ちをいかにして伝えるべきか。
カラになった重箱の中に、お礼のお手紙と、足の弱くなった父を励ましながら初詣に行った神社で買い求めたかわいらしいお守りを入れて、おばあちゃんの家の玄関に置いた。
開けた時のおばあちゃんの顔を思い浮かべながら。
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